性別を実践する?


今、授業で使ってる本の中に興味深い章があります。

社会学の本なんですが、心理学(しかも実験系)専攻の僕にはものすごく斬新な記述に見えます。

 

その章は、アグネスという、あるインターセクシュアルの「性別化の実践」について書かれた章。

 

彼女が女性として生きる権利を獲得するために行った通過作業(パッシング)から、彼女の「性別化の実践」を詳細に記述したものです。

また、彼女の「性別化の実践」を通して、組織化された社会の中で正常(と思い込んでいる)なセクシュアリティが生み出されているということを分析しています。



読んでみて、個人的に面白いと思った事をいくつかピックアップ。
 

 

以下、長いので。

興味のある方、長くてもいいよ、という方がいましたらドウゾ。







 

アグネスはインターセクシュアルで、発達した胸と男性の外性器をもち、女性的体型で女性アイデンティティをもってます。

17歳までは彼女の意志に反して男として育てられ、19歳のときに手術を受けるため精神科を受診しました。

  

 

①生活史。

彼女は生活史を使って自分の現在の状況に歴史を与えます。

 

子どもの頃は人形遊びをし、乱暴な遊びは好まず、兄のためにパイケーキを作り、母親の家事の手伝いをよくした、と精神科医に話します。

 

つまり、いかに子供のころから女性的特徴を持っていたか、そういった要素が首尾一貫したものだったかということを説明することによって、自分は最初から女だったという主張を確定しているわけです。

 

それについて著者は、生活史を使って自分の現在の状況に「歴史を与える」という言い方をしてるのが面白い。

 

で、なぜこのような作業が必要なのかと言えば、彼女には自分は生まれたときから女であるという意味付けを与えてくれる過去の生活史や、これから女として生きていくという将来への展望を示す生活史がないからです。

(自分の性別やセクシュアリティに違和感・疑念を抱いたことのない人は、その生活史をもともと持っている)

 

トランスジェンダー等も同じような作業をしますよね。

何度も自分の過去を振り返り読み直し、自分が現在大事にしているものや願望を支え、統合するための証拠を生活史に求めるわけです。



 

②手術に関する見解。

男または女であるための最も望ましい「資格」は、“生まれつき・自然が与えた”性別に合った性器を所有していることだといいます。

 

なので、文化的に提供された性別(ジェンダー)と矛盾する身体を持つ彼女は、手術によって自分が望む“女性であることの資格”を得るしかないわけです。


つまり「自分は最初から女だった」と主張する彼女にとって手術とは、“自然”の過ちを訂正し、「自然に与えられるはずであった」もの(女性であることの資格)を提供する代理の役目を果たすわけです。

 

手術によって自然に与えられるはずだった“女・男であることの資格”を獲得する、っていう見解がすごいですね。複雑。

 

僕は心理の人間なので、こういう社会学の本を読むと考え方の相違が面白かったり不思議だったりして、勉強になります。



 

③社会システムに適応するために。

アグネスはあくまで“自然で正常な女性”にこだわります。

 

そのために彼女は、人々がどのように男・女として生きるための権利の証拠を互いに提供し合っているかを学び、女性はどう振舞うべきかを学び、自分を自然な女性として認識させ、女性として日常生活を生きるために必要な状況操作の技量などを獲得します。

 

そして、自分が女性であることを人に認めさせることが可能かどうかをテストし、予期していたことと結果とを比較して期待と成果をよく見極め、その間の食い違いを調整したり正常化したりする作業を繰り返します。

 

…本当にしんどい作業ですね。


性別に関する通過作業って、性役割という正当と思い込まされている秩序に従おうとする活動であるが故に、一度でもその秩序が文化的に作り上げられたもので、実は不変ではない…ということを知った人間がやろうとすると、ものすごーくエネルギーがいるし、緊張状態が続くわけです。

 
で、なぜこの作業が必要なのかということについて。

それは、正常なセクアユアリティを持ってると思いこんでいる人たちとアグネスの間の、重要な相違が影響しているといいます。

 

自分が正常なセクシュアリティを持っていると思いこんでいる人は、考え込むこともなしに、自分は「男だ・女だ」と主張することができます。

けれどアグネスは、自分は女だと主張しても絶えず周りに気を配りながら、考え、様々な工夫を織り込みながら自分の主張を支え、学習・リハーサル・反省・テスト・復習などを通して自分の状況などを管理していかなければならないんです。

 

まさに、「事実」とは、自分がこうだと思っていることなのか、他人がこうだと思っていることなのか?…っていう違いみたいな感じ?(分かりにくい

 
 

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この資料を読んで思ったのは、


個人が現在感じている性って、自分が男or女orその他だからなのではなく、生まれたときから現在までの積み重ね、つまり男or女になることを強要される文化の中で「男性である・女性であることを実践し続けてきた」ことによって生じる感覚なんじゃないかな…ということ。


例えば女性だったら、女言葉を使う、女性はどうふるまうのか学ぶ…etcといった女性文化を、実際に日常生活を通して相互反映的にやっていくことによって、「自分は女だ」という確固たるアイデンティティを獲得していくわけですよね。

要するに人は(特にジェンダー規範の強い圏に住む人)、固定された男性文化・女性文化の中で「男性である・女性であることを実践し続ける」ことによって、男性または女性に“なっている”だけなんじゃないか…と。


そういう意味で、アグネスが行った性的通過作業は彼女に特別なことではなくて、実は私たちの誰もが自分の性別を自認したときから行っている「女性・男性であることの実践=性別化の実践」でもあるんじゃないでしょうか。

 
そんなことを思いました。
 

個人的興味に偏った分かりにくい説明ですんません。

 

気になる方は本をご覧あれ。↓

【H.ガーフィンケル(著) 山田富秋・好井裕明・山崎敬一(訳) 『エスノメソドロジー』 せりか書房, 1987 (orig.1967), pp215-295.)】

 
 

最後に。

この資料は性別2元論に対する批判(疑問?)はあるものの、あくまで性別を「男女」2つでとらえて論じている点が少し残念。



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