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マイケル

深夜ラジオ(FM7●.5)のマイケル追悼特集を聞きながら、ちょいとしんみりした。

 「You are not alone」と「heal the world」が好きなんですが、コレが流れたときは涙腺ヤバかった。

あー…何だか未だに信じられないですけどね。

心からご冥福をお祈りします。

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スカート それぞれの不自由さ


「スカート(榎本ナリコ/著)」 という漫画を学部の後輩が貸してくれました。
漫画はほとんど読んだことがない感性に乏しい僕ですが(笑)、これはもうとにかく面白かったです。


「女なのに女装してるみたい」「あたしは女になれない」という、主人公の葉子。

幼馴染の葉子に想いをよせる男の子、幹。

幹に想いを寄せるゲイの花。

そんな3人の物語なんですが、読者や社会に対する問題提起がスゲェと思いました。

「どうしてこんなにも否定なく、みんな”男と女”なんだろう」

この言葉に、作者の色んな思いが込められてる気がした。

以下、ネタバレになるのでOKな方だけどうぞ (しかも長い








子どものころ、親の化粧品を拝借したり可愛いワンピースを着るのだって好きだったという著者。

でも、男の子になるのが憧れだったという。

なぜなら、その方が“女の子であるより自由な気がした”から。

まだ子供であったとはいえ、性差の問題を感じ取っていたのでしょうか。

そんな著者が、唯一男子より自由だと思ったのが、“スカートをはく自由”だったという。

男子はズボンしかはけないけど、女子はスカートもズボンもはけるということが、著者が「男の子の中に初めて発見した不自由」。

「スカートをはけない」という、男性の不自由さ。

逆にいえば、「スカートをはく」という行為は、「当たり前の男でいる」という重いカセから自由になる象徴。

スカートをはくと足もとが軽くなり、当たり前だと思ってた「男」というものが本当はそうではないことに気づく。

実は、「スカートをはく自由を奪われている」ことを知る。


終盤で、幹が会社の女性社員の制服のスカートをはいて来客にお茶を出すシーンがあります。
最初、当たり前に「男」だった幹が、葉子や花との関わりを通して自分のジェンダー観を見つめ直す…つまり「男」というものを背負わされていることから、その重いカセから自由になる、という意味で幹にスカートをはかせたのだと思いますが。
それを見た上司は、「スカートをはいている」ことと「何で男がお茶出しをするんだ」ということを怒ります。


スカートをはけないこと、お茶くみができないこと、それはあまり気づかれない男性にとっての不自由さ。

極端なことではあるけど、男性はヨメに行く自由を奪われているし、「ムコになる」将来の夢もあらかじめ奪われている・・・と著者は語っている。

実はどちらの性も「男・女」にとらわれていて、不自由さを感じているんだ、と。

でもそのことに気づかない多くの人は、当たり前の「男」「女」であり続ける。

そして著者は言う。

男の子は、子どものうちは女の子を同じ人間として受けとめているけれど、彼らが子どもでなくなり男になり、セクシュアルな問題が立ち上がる時、彼らは女の子を欲望の対象としての「女」と思ってしまい、同じ「人間」だということを忘れてしまうのではないか、と。

そのような男性として描かれているのが、葉子に想いを寄せる幹。

彼は、当たり前に「男」であり、自分が男であることに悩んだことがない、いわば社会で当たり前と人々が思い込んでいる男性像。

幹は、「好きならキスしたい、セックスしたいと思って当然」だと思っているため、

どうして葉子が自分を拒むのか分からなかった。

あまりにも素直に「男」でいすぎるから、人に欲望を向けることがどんなことか知らない。

そして女としての不自由さと闘う、主人公の葉子。

彼女は、子どもの頃は自由だったけど、彼女が「女の子」になるにつれて不自由になっていく。

「スカート」をはくということは、彼女を「女」の中に拘束する不自由さの象徴として表れている。

自分が好きだった男の子(幹)と自分は、子どもの頃は(1人の人間として)対等だった。

でも、だんだんみんな「男」と「女」になっていった。

今、彼は自分を「女」として好きで性の対象としてみている。

どうしてみんな、「男」と「女」にしかなれないんだろう。

彼女は、女としてじゃなく1人の人間としてみてほしいと願うけど、幹にはそれがなかなか分からない。

「ペニス入れられるのなんて死んでもイヤ」、という彼女の言葉に表れているように、彼女の不自由さは、セクシュアルな問題とは不可分。

一見、ジェンダー違和とか性嫌悪に近い描き方をされているけど、特に女性にとって思春期は自分のボディーイメージや性に対する葛藤が生じる。

それはもちろん性別違和に関係なく、多くの女性が通る自分のジェンダーやセクシュアルな問題との闘い。

でも、「スカートをはく自由」を受け入れることで、少しずつ自分の体を受け入れアイデンティティと向き合うようになる。

葉子のように1人の人間としてみてほしいと思っても、相手に性的な目でみられることで、「1人の人間」でなくなってしまうことがイヤだと思う人は意外に多いかもしれない。

そして彼女の姿は、ジェンダー・マイノリティやセクシュアル・マイノリティの人が共感する部分もあると思う。

「俺たちは、男と女どちらにもなれないでいた」、という葉子と花。

葉子や花のような人を、当たり前に「男」「女」である多くの人は知らない。

女として・男として生きにくい人々のことを、社会の多くの人は「ナゼ?」と首をかしげる。

でもそういう人にこそ、ジェンダーやセクシュアリティに対して敏感になってほしい、
女として・男として生きにくい人々のことを知っていてほしい、と著者は言う。

当たり前の「男・女」でいる人たちには衝撃的な作品かもしれない。
それに、性別違和とジェンダー違和の違いや境界線も何となしに分からせてくれる。


長くなっちゃって書ききれないけど、多くの問題を考えさせてくれた作品でした。


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気になる一言


久々に会うビアンの友人とお茶したんですが、カムアウトについてちょちょいと話ました。
内容は、カムアウトしたときに意外と気にかかる言葉は?という感じ。

彼女は、「(肯定的な意味で)そんなことどうでもいいよ」って言われると、何だか複雑な気持ちになるんだそうな。
もちろん好意的な態度を示してくれたことは嬉しいし感謝してるんだけど、なぜか素直に喜べないという。

”君は君であってセクマイだとかそんなこと関係ないよ”…っていう意味で、相手は言うんだと思うんだけど、彼女からしてみると、自分が悩んでいた(悩んでいる)ことは自分にとっては「どうでもいい」ことじゃないから、「そんなことどうでもいい」というのは自分が向き合ってきた過程を切り捨てらるみたいでイヤだと。

確かに、彼女の気持ちも分かる。
自分の思いの蓄積や努力の過程を打ち消されるようなこと言われたら、誰だってイヤだと思う。

でも、相手はこちらの思いや言葉の好みなんて分からないし、ちょっとした思い違いでも気まずくなったりするから、何が・誰が悪いなんて言えない。

だから、カムアウトした後もちょいちょい修正し合いながら、お互い言葉を通じて理解し合っていくしかないんだろうね。
カムアウトしたから終わり・相手任せじゃー上手くはいかないことも多いだろうし。

言葉って難しいですね…。

あと気をつけなきゃならないのは何だろう。
やっぱり、理解や受け入れの「押し付け・強制」なのかな。

ときどき聞くのが、社会的マイノリティの人たちがカムアウトすると、「理解すべき(しなきゃならない)・受け入れるべき(なきゃならない)」って相手は思っちゃう傾向があるんだそうな。
カムアウトした人の言葉がそう思わせるのか、社会的マイノリティに対する人権擁護の意識がそうさせるのかは分からないけど(両方か…)、
できないこと・したくないことを無理してやると、後で「受け入れてくれたんじゃなかったのかよ」vs「やっぱり無理or優しくしてやったのに」などといった亀裂が生じる可能性もあるしね。

その人に対する理解や親しみを通して徐々に受け入れていくっていうのが自然な流れなのか…?と個人的に思う。

ちなみに彼女が今まで言われた中で一番うれしかったのは、「セクマイであることも”含めて”アナタを受け入れるよ」っていう言葉だという。

ぁー…それは分かる気がする。
俺だって、自分のセクシュアリティなしに自分のアイデンティティは成立しないもん。


そんなこんなで (どんなこんなだ)、
明日は日本性教育協会のシンポジウムへ行ってきますw
当日受付もOKなので、興味のある方は参加されてみてはどうでしょうか。
それについて書いた記事⇒http://hermafrodito.jugem.jp/?eid=336


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多数派の男女のための授業


あなたはどっちのアイボン?

クールな爽快感でいきますか?Wビタミンでいきますか?


僕はクールな爽快感の方で(どーでもいい
液の減量がハンパないです。
すっかり花粉症の虜にされました。















さて。

今取ってる授業がほとんどジェンダーに関係する授業で、
当たり前のように男女の恋愛・結婚の話が出てくるんですが、
何だかんだいって、やっぱり多数派の男女のための授業なんだなぁ…って思います。

「女性は~」「男性は~」「妻は~」「夫は~」、「(受講生の)女性陣はどう思う?」「(受講生の)男性陣はどう思う?」がエンドレス。

そこまで男女にこだわらなくても…っていう感じもするんですが。

みんなマジョリティの男女であることを前提に話をされるのって、何とも言い難い気持ちになります。

トランスジェンダーや同性愛などの存在は、最初からないものとして扱われてる感じで切ない。

そりゃーセクマイの人は少ないだろうけど、少ないからってその人たちへの配慮を怠ってもいいなんてことはないと思うんです。
情報(知識)として伝えることも大事だと思う。

中には、ジェンダーの授業なのに「やっぱり女らしい女が魅力的」とか「エロい女はひくが、男はエロくていいんだ」とか失言して、ジェンダー規範を再生産してる呆れた先生もいたり。

マジでジェンダー論を専門外の新人の先生にやらせるのやめてくれ…。
ジェンダーや女性学が専門の先生何人もいるのに、なぜ…。

それから、珍しく同性愛の話題が出てきたかと思えば、「ホモは男なら誰でもいんだ」とか差別的なこと言ったり。

ひどいというか、開いた口が塞がらん。
何度「おいテメェ、表出ろコラ」と思ったことか。

てか、人として最低だと思う。
自分の持つ言葉の影響力とか考えてくれ。

受講生の中にセクマイの子がいるかもとか考えないのか?
もし居ても、少ないからいいと思ってるのか?

それで、院の同級生のビアンの子にそのことを話したんですが、
「私ゲイじゃないから」っていうんだけど、それも何か変な感じがした。
私ゲイじゃないから、僕ビアンじゃないから、…ってそんな問題?

同じセクマイ同士でも、やっぱり意識とか考えって違うんだなぁって改めて思いました。
人はみんな違うんだから、当たり前のことなんだけどね。


まぁそんなこんなで、社会制度とか当たり前になってる規範からみると、自分たちみたいなマイノリティって社会から外されてるんだな…って改めて思った。

それに、ジェンダーって女性を中心に論じられることが多いけど、
それはあくまでマジョリティの女性のためであって、女性は女性でもセクマイの女性の存在(バイセクシュアル、レズビアン、MTFなど)って考慮されてないんじゃないかと思う。

切ない。


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自作 友達の輪

久々にarukoスタッフが揃いました。
メンバーが揃って、顔も見られて、めっちゃ嬉しかったです。

で、スタッフのご友人が参加されているグループ展に連れて行ってもらったんですが、
動物がテーマのイラストの展示で、動物好きの僕らとしては最高の世界でしたw

スタッフのご友人の作品は切り絵だったんですが、もう本当スゴかったです。
「ぇ?…どうなってるのコレ?」という感じで圧巻でした。
チューリップを描いて「もみじ?」と聞かれた芸術性皆無の僕なんかが足を踏み入れて良かったのか。笑








↓は、昼食で入ったカフェでのヒトコマ。
「友だちの輪」by雨さん




材料、ストローの袋。爆
あのストローの袋が、こうなるんですよ?
器用とかそういうレベルじゃない。
スンゲェ。


楽しい時間はあっという間に過ぎていく…という感じで、まだ話足りないこともあったけど、
元気な顔が見られて本当に良かった。




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あえてステレオタイプを取り込むか否か


お久しぶりです。
すっかり間があいてしまいました。10日ぶりですか。

かなりハードかつ濃密な毎日だったので、今日は自主休養です(ぇ

 

更新がカメ状態にも関わらず、たくさんコメントいただいたり、メールいただいたりで本当に嬉しい限りです。

ありがとうございます。


それから、セクシュアリティや性に関するシンポジウムの情報をupしたので、よかったら見てみてください。



 

昨日は修論に関して色々とアドバイスをいただいている先生のところへ行ってきました。

それで、先生の知人の方のお子さんにFTMの方がいるという話から、性別違和を持つ人のステレオタイプの話になりました。

お互い研究分野がステレオタイプ・偏見なもんで。笑

 

先生の疑問は、

どうしてFTM/FTXは一人称として「俺・僕」を好んで使って、本来公的には男女を問わないはずの「私」をあまり使わないの?とか、どうしてMTF/MTXはスカートをより好むの?とか。


個人的には、「その人その人によるんじゃない?」と思うんですが、でもFTM/FTXやMTF/MTXのステレオタイプ像って確かにありますよね。


どうしてソレがあるのかといえば、ステレオタイプな男性性・女性性に訴えなければ、トランスジェンダーが本人の希望する性別であると認めてもらえない社会状況が背後にあるからですよね。

例えば、髪が長くて化粧をしててスカートを穿いてる人が「FTMなんです」と言っても、大半の人は信じてくれないかもしれない。

ヘタをすればバッシングを受ける。


でもよく考えれば、本来ファッションやヘアスタイルなんて自由だし決めごとなんてないハズなのに、短髪(?)で男性的なファッションをしていないと、なんとなく「FTMです」と言いにくい雰囲気ができあがっている。


GIDのステレオタイプ像を取り込むことで、周囲の人の認知を促し社会生活をより生きやすい形にしているという点では、生きるための工夫として肯定的な要素を含んでいる。

 

でもそれが「他者への押し付け」に変わってしまうと、そうしたステレオタイプ像を取り込まない人(取り込めない人)は生きにくくなってしまう。

「なんでFTM/FTXなのに~~なの?」とか、「なんでMTF/MTXなのに~~なの?」とか、「GIDらしさ」みたいなものが壁になる。


特に、性自認が男女以外のトランスジェンダー(Χジェンダーとか)なんかは、ステレオタイプな男性性・女性性に訴えない(訴えたくない)人もいるだろうから、この壁がさらに大きくなるんじゃないかと思う。


自分がそう在りたいと思う形を持ってても、少なからず社会から・周囲から認められたいがために影響される部分もあるから、「自分がそう在りたいからそう在ろうとする」のか、「社会(周囲)から認められるためにそう在ろうとするのか」、どちらと言われても難しい。
バランスが大事ですよね、やっぱり。

 

何が「自分らしさ」なのか、 簡単には言いたくないし簡単に答えは出ないテーマですね。

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6月はシンポジウム多いですねー Part2

成長科学協会主催 第22回公開シンポジウム 「豊かな思春期への支援」

日時:2009年6月13日(土) 午後1時から。
会場:新宿明治安田生命ホール
参加費:無料(当日先着340名)
成長科学協会HP⇒http://www.fgs.or.jp/public/index.html



心身の変化が著しい思春期に起こる精神的・身体的問題、思春期の成長や性発達に関わる身体的問題などをテーマに、ゲストスピーカーの方が話されるそうです。

トランスジェンダーに関する話はありませんが、思春期に起こる精神的・身体的問題はトランスジェンダーにとっても色々と通ずるものがあるのではないかと。
興味のある方は参加されてみてはいかがでしょうか。
参加費無料ですし。

個人的には、ターナー症候群の性発達の話が興味あります。
僕は行けたら行きます。
知人の先生が出られるので。爆


ちなみに↓は、そのシンポジウムのパンフなんですが、思いきり『男女』な感じで苦笑しました。笑







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6月はシンポジウム多いですねー Part1



JASS 第55回日本=性研究会議が行われます。

日時:2009620() 午後1時から。
参加費:1000円(当日受付にて)
場所:家の光会館7階コンベンションホール
定員:80名(定員になり次第締切)
申し込み締切:2009615日(月)

申込方法:Eメール・FAX・ハガキに「氏名・住所・電話番号・メールアドレス・所属・職業」を記入しJASEまで送る(折り返し参加票が送られる)。
お問い合わせ:財団法人 日本性教育協会(JASE)まで。
HP⇒http://www.jase.or.jp/index.html



セクシュアリティ、セクソロジーなどに関心のある方、参加されてみてはいかがでしょうか。
トランスジェンダーに関する研究報告もあるみたいですヨ。
僕は先生に連れられて行きます。笑






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