「スカート(榎本ナリコ/著)」 という漫画を学部の後輩が貸してくれました。
漫画はほとんど読んだことがない感性に乏しい僕ですが(笑)、これはもうとにかく面白かったです。
「女なのに女装してるみたい」「あたしは女になれない」という、主人公の葉子。
幼馴染の葉子に想いをよせる男の子、幹。
幹に想いを寄せるゲイの花。
そんな3人の物語なんですが、読者や社会に対する問題提起がスゲェと思いました。
「どうしてこんなにも否定なく、みんな”男と女”なんだろう」
この言葉に、作者の色んな思いが込められてる気がした。
以下、ネタバレになるのでOKな方だけどうぞ (しかも長い
子どものころ、親の化粧品を拝借したり可愛いワンピースを着るのだって好きだったという著者。
でも、男の子になるのが憧れだったという。
なぜなら、その方が“女の子であるより自由な気がした”から。
まだ子供であったとはいえ、性差の問題を感じ取っていたのでしょうか。
そんな著者が、唯一男子より自由だと思ったのが、“スカートをはく自由”だったという。
男子はズボンしかはけないけど、女子はスカートもズボンもはけるということが、著者が「男の子の中に初めて発見した不自由」。
「スカートをはけない」という、男性の不自由さ。
逆にいえば、「スカートをはく」という行為は、「当たり前の男でいる」という重いカセから自由になる象徴。
スカートをはくと足もとが軽くなり、当たり前だと思ってた「男」というものが本当はそうではないことに気づく。
実は、「スカートをはく自由を奪われている」ことを知る。
終盤で、幹が会社の女性社員の制服のスカートをはいて来客にお茶を出すシーンがあります。
最初、当たり前に「男」だった幹が、葉子や花との関わりを通して自分のジェンダー観を見つめ直す…つまり「男」というものを背負わされていることから、その重いカセから自由になる、という意味で幹にスカートをはかせたのだと思いますが。
それを見た上司は、「スカートをはいている」ことと「何で男がお茶出しをするんだ」ということを怒ります。
スカートをはけないこと、お茶くみができないこと、それはあまり気づかれない男性にとっての不自由さ。
極端なことではあるけど、男性はヨメに行く自由を奪われているし、「ムコになる」将来の夢もあらかじめ奪われている・・・と著者は語っている。
実はどちらの性も「男・女」にとらわれていて、不自由さを感じているんだ、と。
でもそのことに気づかない多くの人は、当たり前の「男」「女」であり続ける。
そして著者は言う。
男の子は、子どものうちは女の子を同じ人間として受けとめているけれど、彼らが子どもでなくなり男になり、セクシュアルな問題が立ち上がる時、彼らは女の子を欲望の対象としての「女」と思ってしまい、同じ「人間」だということを忘れてしまうのではないか、と。
そのような男性として描かれているのが、葉子に想いを寄せる幹。
彼は、当たり前に「男」であり、自分が男であることに悩んだことがない、いわば社会で当たり前と人々が思い込んでいる男性像。
幹は、「好きならキスしたい、セックスしたいと思って当然」だと思っているため、
どうして葉子が自分を拒むのか分からなかった。
あまりにも素直に「男」でいすぎるから、人に欲望を向けることがどんなことか知らない。
そして女としての不自由さと闘う、主人公の葉子。
彼女は、子どもの頃は自由だったけど、彼女が「女の子」になるにつれて不自由になっていく。
「スカート」をはくということは、彼女を「女」の中に拘束する不自由さの象徴として表れている。
自分が好きだった男の子(幹)と自分は、子どもの頃は(1人の人間として)対等だった。
でも、だんだんみんな「男」と「女」になっていった。
今、彼は自分を「女」として好きで性の対象としてみている。
どうしてみんな、「男」と「女」にしかなれないんだろう。
彼女は、女としてじゃなく1人の人間としてみてほしいと願うけど、幹にはそれがなかなか分からない。
「ペニス入れられるのなんて死んでもイヤ」、という彼女の言葉に表れているように、彼女の不自由さは、セクシュアルな問題とは不可分。
一見、ジェンダー違和とか性嫌悪に近い描き方をされているけど、特に女性にとって思春期は自分のボディーイメージや性に対する葛藤が生じる。
それはもちろん性別違和に関係なく、多くの女性が通る自分のジェンダーやセクシュアルな問題との闘い。
でも、「スカートをはく自由」を受け入れることで、少しずつ自分の体を受け入れアイデンティティと向き合うようになる。
葉子のように1人の人間としてみてほしいと思っても、相手に性的な目でみられることで、「1人の人間」でなくなってしまうことがイヤだと思う人は意外に多いかもしれない。
そして彼女の姿は、ジェンダー・マイノリティやセクシュアル・マイノリティの人が共感する部分もあると思う。
「俺たちは、男と女どちらにもなれないでいた」、という葉子と花。
葉子や花のような人を、当たり前に「男」「女」である多くの人は知らない。
女として・男として生きにくい人々のことを、社会の多くの人は「ナゼ?」と首をかしげる。
でもそういう人にこそ、ジェンダーやセクシュアリティに対して敏感になってほしい、
女として・男として生きにくい人々のことを知っていてほしい、と著者は言う。
当たり前の「男・女」でいる人たちには衝撃的な作品かもしれない。
それに、性別違和とジェンダー違和の違いや境界線も何となしに分からせてくれる。
長くなっちゃって書ききれないけど、多くの問題を考えさせてくれた作品でした。
Monday, June 22, 2009
Labels:
Backnumber Jugem,
Sexuality-_-gender
4 comments:
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自分の立場から見ると,わかる気がするけど,なかなか難しいテーマですね.今度読んでみようかな.
僕も母になぜ自分は男の子に生まれなかったのか?という質問を何度もしたらしく,子供にわかりやすい言葉のつもりで言ったのか,「男の子はズボンしかはけないけど,女の子はスカートもズボンもはけるから,そのほうが特でしょ?」といわれた気がします.
でも子供心に立って用を足せない損もあるのに・・・って思っていた気がします.
そういえば,精神科の主治医に自分の性別違和の話を出したときに,「ジェンダーに関する問題は得意ではないからあまり詳しくは言えないけど,一般的には思春期までに自分の体から性別を自然に受け入れるものとされています」と言われましたねぇ.
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■レイジさん
性別ではなく、対人間同士の付き合いができたら素敵ですよね。
ダイアナ(ディアナ?)コンプレックス、授業で一度聞いたことはありますが、詳しくはさっぱりです。
時間があるときに調べてみようかな…。
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■Lokiさん
個人的にはかなりオススメの漫画デス*
女性としての不自由さを感じながらも、お母さまの言葉のように女としての自由を受け入れることで、女の子は思春期を乗り越えていくんでしょうね。
とはいえ、思春期も青年期も延びていると言われる時代ですから、体と性別に関わる葛藤や受容が青年期に持ち越されても不思議ではないと思います。
もちろん、性別違和の問題はまた別ですけど。
立って用を足せない損…、僕も思ってました。笑
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著者は私に近いようで、違う見方から考えを漫画として描いているんですね…。私もひとりの人間として人付き合いをしたい。
話は変わりますが、最近初めてダイアナコンプレックスという言葉を知り衝撃を受けた…。めぐむさんは知っていましたか?何気なくネットサーフィンしてたら見つけて、私はFTXよりこれなのかと感じました。
またなんだか分からなくなりそう…。